「玄峻」の思い出   ---関西実生会用原稿 平成7年---

=@来年度の銘鑑に新しく登録される品種七点がこの十月の新登録審査会において決定しました。関西実生会では西尾さんの「愁思」が新登録となりました。審査員として申請された品々を観察し、考えることは、全ての品種にそれぞれの歴史、ドラマ、思い入れがあるのだなあということ、そして立派な飾り鉢に植え込まれたおもとからはつくづく作出者や栽培者の思いが伝わってくる気がします。
 私もおもとの売買を生業として来た中で何本かの新登録に関係してきました。当園の先代が登録した「碩山」、三好会の「麒堂」、最近では「光環」、「翠天」、「松寿の舞」、「蒼韻の松」、「聖松」、「松扇」などがあり、それぞれおもしろいいきさつや、悲喜劇がからんでいます。今回は「玄峻」について書いてみます。
実生の生産地三河
 「玄峻」は昭和45年頃三河の杉山氏が作出したものです。当時はもちろんF1 の研究はなされていましたが、交配の記録はきちんとしていないのが一般的で、この箱は大宝、こちらは大車、これは大判という感じで、生えた雌木で区別していたように思います。「玄峻」はいわゆる大宝系の生えでした。♀はかなり正確だと思いますが♂は不明が多く、あるいは買う人に正確には教えなかったのかも知れません。当時は実生といえば三河を於いて無く、各地でも熱意を持って研究して居られる方もいたはずですが、たくさんの生えを業者に供給できるところはまだ無かったと思います。薄葉、大葉の人気が天井に近く、何となく羅紗に目が向き始めた頃で、当然業者はその人気同行をいち早く感じとり、何とか良い実生を入手しなければと、実生の争奪戦の様相がありました。また実生家も名品を育成して登録するのではなく生産して販売するのが目的で、業者との思惑が一致していたようです。七月に一回生えの様子を視察するために三河を訪れ、お盆をすぎた頃に、地元の業者を通じ、あるいは直接実生家の棚を訪ねて抜き買いするのが商いのペースだったのですが、段々加熱し、お盆前、八月初旬、七月末と早く行かなければ他の業者や目利きの趣味者に抜かれた後、箱の隅をほじくって型の良い生えを探すというようになってきたのです。頭に来て、七月はじめに型の良い、厚葉の生えを買い込み、楽しみに作っていたところ、九月になってみたら、葉が順調に伸びて、ほとんどハガタになってしまったというような笑い話も聞きました。
一棚の一括買い 
 当然当園もその部類で、また先代はおもとの世界では駆け出しでもありましたので地域的、情報的なハンディがありなかなか良いものが入手できなかったわけです。そこで色々戦略を練り、結論は、実生家の生えを全部買ってしまおうという一括買いでした。ちょうど三河で売り出し中の新進の業者、桶庄氏に依頼し、他の業者に抜かれる前に全部を契約してしまったのです。当時の相場は、抜き買いで一本二、三万位、飛びの上苗で四、五万位だったと記憶していますが、それを一括して百万をはるかに越える金額で買うのですから、採算的には当初から難しい感じがありましたし、事実金儲けにはなりませんでしたが、夢と希望が一杯で、商売のことより宝の山を手に入れたような気分で最高にうれしかったものでした。
実生会で批判を浴びる
 ところがその年の三河実生会に出席し、また会場であれこれと実生を物色していたのですが何となく雰囲気がよそよそしい感じ、そして昼食懇親会になりました。その席上、実生会の会長T氏が挨拶の中で「最近県外の業者が実生を根こそぎ持っていってしまう。これでは三河の実生界はさびれてしまうし、商売の品位が無い」と名指しはされなかったものの、厳しく批判されてしまったのです。正直言って狐につままれたような気がしました。というのは、実生家は「良い物を何本か高く売っても残りは二束三文で、一括して買ってくれるならその方がずっといい」と喜んでおられたし、買う方にしてもリスクが大きく、決して大儲け出来る商いではなかったのですから。しかし帰宅してから先代が曰く「自分は品の悪い商売をしているとは全く思わないが、この世界で生きていく以上協調性も大切にしなくてはならないな」と。その後は一括買いはしないことにしたのです。
確率数千分の一
 さてその後大量の実生は、箱の中から良さそうな物を五十本位鉢上げし、お客様が望まれた場合だけ販売し、残りはほとんど当園で作りました。三年くらい育成して見込みの有りそうなものは五本位、後は展示会の売店用となりました。その中の一本が葉繰り良く、姿を乱さず、見事な羅紗になった次第で、確率という見方をすれば何千分の一でしょうか。結果的にお客様が選ばなかった中に「玄峻」が残った訳でつくづく実生というものは「運」の要素が排除できない世界だと思います。ただ運だけでないことはもちろんで、それぞれ独自の鑑識眼の基準はあるかと思いますが、私の場合はは「鬼面、人を驚かすような芸はいけない」という言葉を念頭に置いています。これは私がまだ駆け出しの頃、東京の河原井氏が当時河原井一号、二号と呼ばれていた「松籟」、「石州」を前に教えていただいた事です。もう昔の事なのでついでに書きますが、その一本物を三光園の現社長が、展示会に出したいから預かりたいとの事で持っていったのです。その後なんの音沙汰もないので問い合わせたところ、同じ長野の桂本氏が欲しいので売ってくれとのこと、名前も「玄峻」にしたとのことでいささか驚き、少々憤慨したものです。「非常に光栄なことでありがたいけれど、"原価"は百万を越えるし、金額では無く夢を持って作っているのだから。」ということで返品してもらったいきさつもありました。結果的に桂本氏の素晴らしい命名だけは頂いた訳です。
その後、縞羅紗として順調に増え、羅紗人気の消長と共に歩んできた「玄峻」ですが昭和六十年頃に待望の覆輪が完成し、立派な完成木が出来るのを待ってようやく平成六年に銘鑑登録になったのです。生えてから約二十五年、「苦節..」では有りませんが全く「運、鈍、根」の世界ですね。
                                             田中栄二【田哲園】
                                ---関西実生会用原稿 わずか加筆---